縁がわでビール

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地震と停電、腸炎と入院、禁煙とランニング。きっかけはいつも重なってやってくる

9月はいろんなことがあって、みえる景色がめまぐるしく入れ替わった月だった。地震と停電と台風。腸炎と入院、いろんなことが重なった。

 

村上春樹の短編で「プールサイド」という作品がある。35歳を迎えた主人公の男性が人生の折り返し地点を意識するという話。仕事にも家庭にも恵まれていて家庭とは別に恋人もいる。しかし何か自分の人生に現実感を持てないでいる、というような不思議な印象の作品だ。

自分は35歳はとうに過ぎているけれど、今年40歳という節目だ。そして「二百十日」の9月にいろんなことが立て続けに起こった。はじまりの合図は何度かある。今回の合図は人生の折り返し地点の合図ではないかと思った。

 

自分はずっと「そのうち」煙草をやめたいと思っていた。「そのうち」痩せたいと思っていた。「そのうち」ちゃんと走りたいと思っていた。

でも思うばかりではじめることには手を付けなかった。あれこれと理由を探して自分以外のせいにしていた。人は物事を自分で決めているようで決めていない。でも今回をきっかけに自分はとりあえず煙草を吸わないことにした。新しいランニングシューズを買った。

入院や転職、転勤や結婚。意志の弱い人間には外的なきっかけが必要だと思う。そしてきっかけはいつも重なってやってくる。でもほんとうは転機はいつどこの瞬間にもあるんだよな。拾うか拾わないかだけで。

 

 

絶食と点滴。入院中の4冊

 自分は補聴器の外勤をやっているのだけれど、営業や販売というのはバイオリズムのような引き合いの波があるなと思う。暇なときにはずっと暇。でも忙しいときにはどっと重なる。波の大きさはその時々で違うのだけれど、人間が何かを必要としたり欲しいと思う時期はたぶんどこか似てくるのだ。潜在的な意識なのか季節なのかはわからないけど。

 ここ最近はお盆前くらいまではのんびりと仕事をしていたが、その後8月下旬頃から少しずつ訪問の依頼が増えてきていた。上向きの波がきているなとは思っていたが、8月末の催事がきつかった。爆発した。対応する人間は俺しかいないのに、次から次へとやってきて小便に行く暇もない。データの整理や納品の準備なども重なった。必死で来る球を打ち返す。打ち返してもまたボールが飛んでくる、走る人間は他にいないので俺が走るしかないという状況で手一杯になっていた。

 

 そういう中での地震と停電。自分とすればケガをしたわけでもなく、家が壊れたわけでもなく、ただ電気が1-2日来なかったというだけのことで、むしろ電気のない非日常の経験は貴重だなくらいに思っていた。ただ今回の停電の間に訪問できなかった案件は後からまた行かなくてはならない。それをこなしている間にもまた案件が増えていく。いっぱいの状態。体の不調は感じていなかったが、気持ちが追い付いていなかったことは確かだ。地震と停電もどこかで自分の体の不調とつながっていたのかもしれない。

 

 シルバーウィークの連休初日から急に腹が痛くなった。病院に行って抗生剤をもらったが、一日二日経ってもぜんぜんおさまる気配がない。むしろ悪くなっているような気さえする。日曜日の夜中、耐えきれず夜間救急に駆け込んだ。腸炎と診断されて速攻で入院である。

 腸炎なのでまず炎症を抑えなくてはならないのだが、大切なことは安静にすることだ。つまり炎症が治まるのを待つしかない。処方箋は絶食と点滴になる。感染性かもしれないので炎症が治まって検査の結果が出るまでは部屋を出ないようにと看護師さんに言われた。


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 何時間かに一度看護師さんが点滴を取り換えにやってくる。日勤と夜勤の看護師さんのローテーションだ。看護師さんとは長い会話を交わすことはまずなかったけども、話す人がいない生活の中では二三言葉を交わすだけでも日々のアクセントになった。

 それでもぶすっとしたおばさん看護師さんと、表情が柔らかくて笑顔が素敵な看護師さんとでは全然違う。感じのよい看護師さんが去ってから、いやー笑顔すてきすぎるわ最高だーと思って、少しの時間を振り返っているだけでも世界は明るくなるし幸せに包まれる。ちょっとしたことに対するリアクションの積み重ねが幸せな人生なのだと思う。人間、単純な方が愉しく過ごせるのかもしれない。

 

 いずれにしても看護師さん以外は誰も来ないし部屋をむやみに出ることもできないので本を読むしかない。看護師さんにTVはネットフリックス観られるので映画とかドラマとか観たらいいのにと言われたが、何故か今回はTVみたり映画を観ようという気持ちにはなれなかった。読んだり見たりすることは集中力を必要とするので今回は本を読むこと集中しようと思った。

今回の入院のお供は以下の4冊。


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・小松理虔著「新復興論」

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・山口周著「劣化するオッサン社会の処方箋 なぜ一流は三流に牛耳られるのか」

https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%A3%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%87%A6%E6%96%B9%E7%AE%8B-%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%80%E6%B5%81%E3%81%AF%E4%B8%89%E6%B5%81%E3%81%AB%E7%89%9B%E8%80%B3%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%91%A8/dp/4334043739/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1537766875&sr=1-2&refinements=p_27%3A%E5%B1%B1%E5%8F%A3+%E5%91%A8

・三浦英之著「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」

https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%99%B9-%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%89%E6%B5%A6-%E8%8B%B1%E4%B9%8B/dp/4087456676/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1537767328&sr=1-1&keywords=%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%99%B9

服部文祥著「サバイバル登山家」

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%AE%B6-%E6%9C%8D%E9%83%A8-%E6%96%87%E7%A5%A5/dp/4622072203/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1537767377&sr=1-1&keywords=%E3%82%B5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%AE%B6

 せっかくの時間なのでこれまで読めていなかった古典や文豪の小説も入れたかったのだけども、小松さんの新復興論が400ページ、三浦記者の五色の虹が300ページとけっこうな分量があった。そしてその2冊はこの機会にどうしても読み切りかったので小説は取りやめた。

 

 今回読んだ4冊の本はそれぞれまったく違うジャンル、カテゴリの本なのだけれど、どれも性根にまっすぐ向かってくるような気持ちの良い本だった。ためになったし何よりも面白い。読書とは何かを知るための手段にすぎないけれど、自分が触れたことのない、接したことのない世界があって、その世界は自分と地続きなのだと思わせてくれる本はとても貴重だと思う。それぞれのレビューについてはまた改めて紹介。

 

 

世の中にはいい友達なんていない いい人間関係があるだけ

仕事は基本外回りで移動も多いのでよくラジオを聴いている。

よく聴いているのがJWAVEで毎週月曜日の夜にやっている宇野常寛さんの『THE HANG OUT』だ。宇野さんは自分と同じ年。同じ時代を過ごしてきたせいか、宇野さんの言説が妙にしっくりくる。早口だけどききやすい声、社会問題から恋愛のお悩み相談まで、おぉーなるほどなーと思うことしきり。北海道だからJWAVEは聞けないのだけれどRazikoで録音したり、youtubeで繰り返し聴いている、基本外回りの時間は毎日宇野である。先週、宇野さんは「人付き合い」について話していた。すごくしっくりきたので忘れないように備忘録。

 

 

宇野さんはその人がいい人か悪い人かは自分にとっては関係がない、いい関係なのかどうか。その関係が美しいか美しくないかなんだ、とも話してた。

 

自分は高校の時に仲のよかった男友達が数人いて、20代半ばくらいまでよく遊んでいたのだけれど、連絡が3か月に一度になり、半年に一度になり、数年に一度になり、今では連絡を全くとっていない。今でも時々思い出して、久しぶりに遊びたいなと思うこともあるんだけど、自分もその友達も、転勤や転職や結婚などの人生のイベントごとのたびに相対的な位置関係が後ろの方になってしまった。

 

関係性は定期的にメンテナンスをしていかないと関係が切れてしまう。切れてしまったら接続しなおすには維持する以上にコストがかかる。今いる人を大事に思うのなら、関係を維持するためにメンテナンスをしていかないといけないし、そのためのコストは怠るべきではないのだ。大事に思っている人にはすぐに連絡だよな。そのための理由はいらなくて「話したくなってさ」ということだけでいいんだ。

 

 

 

なぜマヤは泣き崩れたのか ビンラディン殺害計画を扱った映画『ゼロ・ダーク・サーティ』

zdt.gaga.ne.jp

ちょっと前に永江さんのブログで『ゼロ・ダーク・サーティ』がすげえとおすすめされていたのでamazonプライムで観てみた。

若き女性CIA捜査官がビンラディン捕獲・殺害ミッションに邁進する話。製作にはCIAも協力したらしく、政権のプロパガンダ映画ではないかと話題にもなったそう。↓

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ギリギリの場面で人間はどう行動するのかという問い。塚本晋也監督の『野火』が強烈。

昨年観た塚本晋也監督の映画「野火」。忘れないように感想を書いておいていたのだけれど、備忘録としてこちらにも残しておきたいと思う。
 

この映画、強烈で凄まじかった。 血の匂い、火薬の匂い、ジャングルの湿度、強烈な飢餓、混沌とする意識と狂気、一瞬で目の覚める爆発音、みえない敵から攻撃されるという不安感。リアリズムが半端ない。

家でみてもそれなりのインパクトはあると思うのだけれど、映画館という与えられた箱の中だから得られる没入感があった。映画館だからこそ得られる映像体験。原作の没入感もかなりすごくて、寝る前に読むと夢に見てしまうくらいのインパクトなのだが、視覚と聴覚が入るとまた別次元になる。すごい体験だった。

 

原作は大岡昇平の同名作品。戦場での飢餓から人間が追い詰められていくさまを描かれる。以下、wikipediaからのあらすじ引用

太平洋戦争末期の日本の劣勢が固まりつつある中でのフィリピン戦線が舞台である。 主人公田村は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からは食糧不足のために入院を拒否される。現地のフィリピン人は既に日本軍を抗戦相手と見なす。この状況下、米軍の砲撃によって陣地は崩壊し、全ての他者から排せられた田村は熱帯の山野へと飢えの迷走を始める。 律しがたい生への執着と絶対的な孤独の中で、田村にはかつて棄てた神への関心が再び芽生える。しかし彼の目の当たりにする、自己の孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友達という現実は、ことごとく彼の望みを絶ち切る。 ついに「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じることに追い込まれた田村は「狂人」と化していく。

 

戦争という題材だけに反戦ものにとらえられがちだけど、戦争はあくまで舞台装置にすぎない。この作品がほんとうに描いているのは戦争の話ではなく追い詰められた人間の姿だ。生きることは飢餓であり食べる喜びであり狂気であり空の青さであり海の美しさであるということ。ギリギリの場面に直面して、人間は、あなたはどう行動するかという問い。

人は自分の好きなようにしか物事を理解できないけれど、本も映画もイデオロギーのフィルタを通すと作品の本質を見失ってしまうように思う。これは単なる反戦映画ではなくて、超絶骨太な観念的な映画だと感じた。

万人受けはしないし、観る人を選ぶ映画ではあると思う。しかし身に迫る映画を久しぶりに見た。強烈。

時間差でじわじわとくる『リップヴァンウィンクルの花嫁』 その世界観と謎について考える

 

rvw-bride.com

岩井俊二監督の新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観ました。

岩井監督の長編映画では12年前の『花とアリス』以来の新作。個人的には監督の作品を映画館で観たのは「四月物語」以来です。ひとつのきっかけや思いからひとりの女性が成長していくという大筋は『花とアリス』も『四月物語』も今回も同じプロット。しかし『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観終ったあとに感じるのはおとぎの国から抜け出たような感覚と「あれはどういう意味なのだろう」という疑問です。観終ってからずっと考え続けています。

 

「映画とはコミュニケーションなんだ」とどこかの映画監督がラジオで話してました。観客にすべての回答を与えるような映画は観客を馬鹿にしている。いい映画には説明されない余白がある。それが物語としての深みになるんだと。

 

リップヴァンウィンクルの花嫁では暗喩的な謎の種があちらこちらに撒かれています。

今回はそれを考えてみたいと思います。

 

※ネタバレするのでまっさらな状態で映画観たい人は読まないでください

 

リップヴァンウィンクルとは何か】

リップ・ヴァン・ウィンクルとはアメリカ英語では「時代遅れの人」「眠ってばかりいる人」の慣用句になっている言葉です。同名の19世紀のアメリカの短編小説が元になっています。以下、wikipediaからの引用です。

アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川キャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまった。

 

この聞き慣れないタイトルは、時間軸の違う世界がふたつ存在しているということを示していると考えます。 ふたつの世界を行ったり来たり冥界めぐりをするのがこの物語です。ふたつの世界とは「従来の価値観に支えられたリアルの世界」と「自分の価値観に支えられた幻想の世界」です。

 

【誰かに用意されたような幸せから、突如転落する】

派遣教師をしている主人公の七海はSNSで出会った男性と付き合います。こんな感じで簡単に結婚してしまっていいのかなと思いながらも何となく結婚します。きっちりとした結納を済ませ、結婚式の準備をはじめる。しかし親戚づきあいもない七海は呼ぶ親戚がいません。旦那には体裁が悪いから何とかならないかと言われます。

そのつぶやきをSNSにしたところ、偽装の親戚を用意するサービスがあるというリプライが送られてきます。そこで出会ったのが綾野剛演じる安室行舛です。安室の手配でふたりは体裁を保つことができ、豪華な結婚式を挙げます。絵に描いたような夫婦生活がはじまりますが、突如、梯子を外されたように転落します。

ある日ひとりの男が家を訪ねてきます。旦那は浮気をしていて自分はその浮気相手の彼氏だという。七海はそれをネタにされて脅されます。

そこで七海がピンチになります。そこで七海が助けを求めるのが何でも屋の安室行舛。

安室はすぐにホテルに来て七海を助けてくれます。

そこで一件落着したようにみえますが、それははじまりの合図でした。

法事の終わりに義理のお母さんに呼ばれます。そこで両親は離婚していること、結婚式に呼んだ親戚は偽装だったことを問い詰められる。そしてホテルで脅されたときの音声と画像を見せられます。「どういうことなの?」と詰め寄られ、七海は誤解であることを訴えますが、弁解の材料が足りません。「すみません、つい、うっかり」と鳴きながら弁解します。「あなたが不気味で気持ち悪くて仕方ない、出ていきなさい」と言われ、七海は結局荷物を抱えて出ていきます。

これは価値観が違うと分かり合うことはできないという暗喩ではないかと考えます。いくら説明して分かり合おうとしても分かり合えない関係の人間はいるということを示している。それはまさに世代間の分断であり、価値観の相違は埋められない。

七海は出ていきますが行くところはありません。荷物を抱えて東京を歩き続けます。

 

今まで堅牢だと思われていた価値観が実はもうまったく機能しておらず、固いはずだった地面は実は穴ぼこだらけでうっかり足を踏み外したら転げ落ちてしまうようなつくりだった。家族の在り方だったり、職業観だったり、従来の支配的な価値は表向きだけの張りぼてになっていた。結婚披露宴で繰り広げられるうさん臭さはそれを示すものと考えます。

旧来大事にされていた価値は表向きを取り繕うことしかできていない。内実はすかすかの状態だった。固いと思っていた地面が一瞬にして歪んでしまった震災と原発の問題が重ね合わされていると考えます。

 

ノルウェイの森と冥界めぐりの物語】

行く場所のない、途方にくれた七海は何でも屋の安室に連絡します。「今どこですか」と安室に聞かれるのですが七海は自分がいまどこにいるのかわかりません。「どこだろう、自分がどこにいるのかわかりません」と言います。

このシーンでイメージされるのが村上春樹ノルウェイの森のラストシーンです。ノルウェイの森は死者の世界と生きるものの世界を行ったり来たりする冥界めぐりの話です。

このリップヴァンウィンクルの花嫁の世界も、真白のいる死者の世界(自己を拡大した価値観の世界)と生きている者の世界(従来の価値観に支配された世界)のふたつがあります。死者の世界は曇りで白い靄がかかっていて、生きる者の世界は光が射してそよ風の吹く現実の世界です。対比されたふたつの世界を行き来する。どこにいるのかがわからないのはその中間にいるからです。

 

【登場人物には名前が複数ある】

登場人物にはいくつかの名前があります。綾野剛演じる安室行舛には市川Raizoという俳優名も持っています。七海もクラムボンというアカウント名があり、旦那にアカウント名がばれてからはカムパネルラという名前に変えます。クラムボン宮沢賢治の「やまなし」という童話に出てくる謎の記号です。カンパネルラは銀河鉄道の夜でジョバンニと旅をしますが、カンパネルラにとっては銀河鉄道の旅は死にゆく旅路です。ちなみに『打ち上げ花火、上から見るか、下から見るか』での実験室でのシーンは銀河鉄道の夜をイメージしたシーンらしいです。

謎なのはSNSできっかけを与えてくれるランバラル。一体誰なのでしょうか。wikipediaではランバ・ラルガンダムアムロ・レイの精神的な父親の存在であると書かれています。

主人公のアムロ・レイに人間的成長のきっかけを与えた人物であり、パイロットとしての技量ばかりでなく、人間的な器量の大きさからアムロをして「あの人に勝ちたい」と言わしめた。監督である富野由悠季は、ランバ・ラルについて「精神的に父親不在だったアムロに対する、父親役としての存在であった」と後に語っている。

人間的な成長のきっかけを与えてくれる存在、それがランバラルです。作中、七海はランバラルさんは女性だと思っていましたと話すシーンがあります。ランバラルはおそらく女性です。偽装結婚式にバイトで出席した七海はCocco演じる真白と最初に目が合うので、おそらくはランバラルは真白です。真白はクラムボンのときから知っていて友達になりたいと思っていた。そして真白もまたリップヴァンウインクルという別名のアカウントを持っています。

名前は世界を行ったり来たりするための記号のようなもの。戒名というものもあります。現実の世界では真白であり、ネット上ではリップヴァンウィンクルであり、ランバラルです。仕事上の名前は明らかにされません。名前のない仕事をしているのです。真白は現実の世界と自分の価値観の世界の境目がみえなくなってきて混乱しています。心の拠り所を求めている。七海も誰かに頼られることを求めていた。双方の意向が合致してふたりの幻想的な生活がはじまります。

皆川七海という名前、みんなと同じ川を渡り、七つの海を渡るという意味ではないかと考えます。安室行舛は「アムロ、行きまーす」であってその役割のみで存在しています。安室は一時期にドコモのCMに出ていた携帯コンシェルジュ渡辺謙を思い起こさせる機械のような存在です。必要なときにのみ登場する。真白は文字通り真っ白な存在。何もないので誰かに頼りたい、頼られることで自分の存在を確認したい。頼られるために手っ取り早いのがお金です。真っ白は目的のためにお金に頼ります。最初に出てくるキャバで働く大学の友達もその象徴と考えます。

 

 【七海が酒をぐびっと飲むシーンははじまりの合図】

酒が強くなさそうな七海が酒をぐびっと飲む印象的なシーンがあります。

一回目は法事に出たとき、二回目は真白のお母さんを訪ねた場面です。

一回目の親戚の法事でぐびっと酒を飲んだシーンのあと、七海は義母に呼ばれて人生が暗転します。二回目、真白のお母さんを訪ねたところでみんなで裸になるところで七海はぐびっと酒を飲みます。そのあと七海は現実の世界に戻ります。

村上春樹ノルウェイの森ではセックスが世界を行き来する合図でした。死者の世界を出入りするためには儀式が必要です。この酒をぐびっと飲むシーンはその合図ではないかと思います。身を清める意味と考えます。真白には紀代美という偽家族上の偽名もありますが、彼女はいつも酒を飲んでいます。現実世界に戻りたいので酒を飲み続けますが彼女は現実の世界に戻りたくてももう戻れません。身を清めてももう戻れないのです。

 

【どちらの世界にも接続できるネットの関係性とささやかな希望】

最初から最後まで七海がずっと続けていることがネットでの家庭教師です。

世界が暗転して七海はネットで続けていた家庭教師をやめようとしますが、不登校の生徒「オカモトさん」は七海を必要とします。オカモトさんにとっては七海は現実世界とつながる碇のような存在なのです。リップヴァンウィンクルの館でも放浪で行きついた旅館でも七海はオカモトさんの家庭教師を続けます。死者の世界でも現実世界でもどちらからもアクセスができて確かな名前があるのがオカモトさんであり、世界で唯一ある確かなつながりがオカモトさんです。終盤で東京に行こうかなとオカモトさんは言います。七海も東京においでよ、案内してあげるよと返す。七海もまたオカモトさんを必要としているのです。

 

一度観ただけですが、リップヴァンウィンクルの花嫁の世界は構造的には冥界めぐりであり、価値観の崩れた世界でどう生きるかという人たちの話であるという印象を持ちました。

 出ている人みんなすごい芝居をするし、岩井監督独特の画が素晴らしくて、世界にどっっぷり浸かりました。練られた物語って本当にすごい。観た人と意味について語りたくなる映画です。

 

いまGYAOリップヴァンウィンクルの花嫁serial editionが特別配信されているみたいです。まだ第一話しか観てないですが、映画では出てこないシーンが出てきてびっくり。この世界はまだまだ深そうです。 

special.streaming.yahoo.co.jp

 

 

 

踏み込んで打てとロッキーは言った

 

ロッキーが公開になったのは1976年。自分は1978年生まれなのでロッキーからロッキーザファイナルまでロッキーと同じ時代を生きてきたと言っても過言ではない。今回の「クリード チャンプを継ぐ男」はそのロッキーシリーズの新章ということで、年末に観てきた感想の忘備録。4/20にDVDが出るらしい。出るの早い!

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

【最後までリングに立っているということ】

ロッキーシリーズ最高傑作と言えるのがロッキーザファイナル。1作目のロッキーのストーリーのシンプルさを継承しながら、シリーズで重層化された物語を存分に生かしております。観ている誰もがロッキーを応援し、立つんだロッキーと思い、同時に自分を奮い立たせる。映画を観に行く意味がここにあると思わせる作品。

 

movies.foxjapan.com

 

この映画はロッキーが勝っていないというのがすごくいい。クラシック的なロッキーの世界(ロッキー、ロッキーザファイナイル)においては最終的にロッキーは勝っていない。ロッキーの世界における勝利とは最後までリングに立っているということ。観客(映画を観ている人も含めて)は勝敗とは何かということを突き付けられる。

 

つまり、結果的な勝ち負けは個人の人生にとって最も大きな価値ではない。最も重要なのは最後までリングに立っていたのか、最後まで戦い続けたのかどうか、その一点。観客は予定調和に安堵しながらも自分の人生を重ね合わせ、自分は最後まで戦うべきだという思いを新たにする。それがロッキーを観る意味なのだと思う。

 

【ロッキー新章】

翻ってシリーズ新章の「クリード チャンプを継ぐ男」 主人公のアドニスがある日ロッキーのレストランにやってくる。自分はアポロの息子だと告げるところからストーリーが動き出す。トレーナーはやらないと言っていたロッキーも主人公の熱意とアポロへの義理を感じて最終的にロッキーはトレーナーを引き受ける。そして共にチャンプを目指すというストーリー。

伝説のチャンピオンの息子ということもあり、飽和状態のマッチメイクに悩む興行主たちはアドニスに目をつける。ロッキーはチャンスだという。ロッキーも同じ道をたどってきたのだ。

【踏み込んで打てとロッキーは言った】

そしてはじまるチャンピオンとの対戦。実力差がありすぎるという前評判がありながら、アドニスは予想を超えて互角に戦う。これはもしかしたらと思わせるファイトを続ける。一進一退で繊細にラウンドを重ねていくがハードパンチャーのチャンピオンに徐々に押されていく。そして最終ラウンド。このままいけばチャンピオンの勝ちは目に見えている。

アドニスは父親ゆずりの華麗なアウトボクシングをする。しかしロッキーは「踏み込んで打て」と繰り返し言う。最終ラウンド、もうこのままではダメだと観客はわかっている。そこで待ってましたのロッキーのテーマ。ロッキーのテーマがかかるのはこの最後の場面のみ。そこでアドニスがふところに入って「踏み込んで打つ」のだ。

 

この映画では最後の勝敗はあまり意味がなくて、意味があるのはアドニスが踏み込んで打ったかどうか。最後まで戦い続けたかどうか、リングに立っていたかどうか、それがこの映画の意味であり、それはロッキーシリーズが紡いできた魂そのもの。

 

時折、仕事の帰り道なんかにふとロッキーの「踏み込んで打て」の場面を思い出す。

踏み込まないことには何もわからない。踏み込むことでわかる世界の真実がそこにはあるということを思い起こさせる作品。ちなみにクリードのファイトシーンの臨場感はまじで半端なし。今のボクシング映画ってこんなにすげえのかと思わせる映像。

クリードもロッキーも素晴らしいので是非!