縁がわでビール

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吃音のはなし

【吃音という苦悩】

今はだいぶなくなったけれど小学校くらいまで吃音がひどかった。それから徐々に発症は少なくなったけれど、今でも体調が悪いときには言葉が出なくてどもるときがある。小学生の時にはどもった話し方をからかわれた。一対一の会話では問題ないのだけれど、今でも複数の人の前で話すということが得意ではない。

 

【コミュニケーションのハードルが上がる】

吃音者はどもりやすい言葉を避けて話すようになるので、自分の意思と言葉の意味に齟齬が生じて、結果自分の伝えたいこととは離れた意味になってしまう。自分の言葉に自信を持てなくなってくるし、誤解されることも出てくる。自分が思っているほど誰も自分に興味を持っていないし、結局そんなことを気にしているのは自分だけなのだと思うのだが、吃音があるおかげで必要以上にコミュニケーションのハードルが高くなってしまった。気が付くと人前で話すことが苦手になっていた。

 

【言葉が出ずに無音状態になる】

20代後半のある日、自分が会議で発表しなければならないことがあった。資料をつくって発表する準備はしていたのだけれど、緊張あって途中でまったく言葉が出なくなってしまった。会議室が無音状態になり、全体の空気が重くなっていくのを感じた。みんな居心地悪くなっているのがわかった。イライラしている人もいた。情けなくて恥ずかしくて悔しくて穴に入りたい気持ちになった。あれから10年近く経つけれど、今でもあの瞬間を思い出すと目をつむりたくなる。

 

【安心な関係性が良薬】

でも気がつくとここ最近はほとんど吃っていないように思う。この2~3年の間にツイッターを通じて新しい知り合いができ、会社と家の往復だった狭い世界が広くみえるようになった。前よりも自分が話したいことについて話す機会も増えた。好きなことについて話すときには不思議とどもることはなかった。以前より自分の考えを率直に伝えられるようになった。会社と家以外で「安心して話していいですよ」という関係が人間には必要なのだと思った。安心が良薬なのだ。

 

【吃音には味方になってくれる人が必要だ】

吃音がひどかったとき、共感してくれて味方になってくれる人がいたらずいぶん違ったと思う。サポートしてくれる人がいたら助けられたと思う。傍からみれば吃音は成長によって解決される些細なことのようにみえるかもしれないけれど、当事者にとって言葉が出ないことは一大事なのだ。

若年時の自信の喪失は生涯年収の違いに直結する。吃音のあるなしで人生には大きな違いが出てくる。

吃音に対する一般的な知識や認識が広まってほしいと切に願う。いまは吃音者をサポートするコミュニティもあるようだ。自分が話したいことを話せるというのは幸せな人生の条件のように思う。

狛江には吃音についての理解を広めて吃音をサポートしてくれる団体が活動しているらしい。こうした取り組みが増えれば増えたらいい。